ケンのトコトコ日記

ゆる〜り旅日記

和歌山県橋本市隅田町垂井[隅田八幡神社(すだはちまんじんじゃ)]までツーリング

隅田八幡神社は京都府石清水八幡宮から勧請された神社です。

 

ここに伝わる人物画象鏡は、日本最古の金石文の一つ

 

として国宝に指定されています

 

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神功皇后が外征後、筑前国から紀伊の衣奈浦(日高郡由良町)を

 

経て大和の都に御還幸の途次、この地に滞留なさせ給いし旧跡にして、

 

貞観元(859)年に八幡社を勧請したのが創祀であるといわれています。

 

 

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寛和2(986)年摂政・藤原兼家山城国男山にある石清水八幡宮

 

境内に建てた三味堂の料所として紀伊国伊都郡隅田村を寄進して、

 

ここに石清水八幡宮社領紀伊国隅田庄が成立しました。

 

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拝殿です。

 

やがて永祚2(990)年には国免庄としての隅田庄となり、

 

万寿5(1028)年には検田使が立ち入らない隅田庄となりました。

 


さらに、延久元(1069)年の荘園整理令にかかわらず、

 

同4年9月5日づけ太政官の牒によって、石清水八幡宮の荘園として認められました。

 

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以降、石清水八幡宮によって隅田庄の開発と支配が行われ、

 

隅田別宮として勧請されました。


天永元(1110)年に隅田庄内の豪族・長(のちの藤原・隅田)忠延を

 

隅田八幡宮俗別当および隅田庄の公文(庄官)に任命して、

 

隅田八幡宮の管理および隅田庄の支配をさせています。

 

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永禄3(1560)年2月松永彈正久秀の来攻、社殿が焼失、

 

慶長年間に再建され、後文政2(1819)年に焼失、同5(1822)年に

 

再建され現在に至っています。

 

(例祭)
県下最大の担ぎ山車屋躰(だんじりやたい)が当番地区から

 

4基(13基が年毎に交代する)が、笛・太鼓で囃子ながら巡行し、

 

紙子や幣をかざした子供達が先駆を勤め宮入りします。


渡御は、屋躰、御輿、宮司、神官、巫子、神具、麻裃一文字笠の

 

総代役員が行列をなし御旅所まで練り歩きます。


屋躰は大人100余人で担ぎます。

 

車で参拝の際は神社境内に駐車できます。

 

↓地図↓

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